活魚専門料理 松久園  
     
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松久園のおいちたち
庭園から見た母屋
国道38号線から道道317号中美生・芽室線を新嵐山方面へ、雄大な日高山脈を右にながめながら約5kmのところに松久園はあります。
松久園の看板を左折、約400mほど行くと、アイヌ語でポロヤムワッカ川(甘い水の湧くところ)という小さな湧水の川が流れています。何の変哲もない小川ですが、この川なくして松久園の歴史を語ることはできません。
 
苦難に満ちた渡道
 
  松久市治は、岐阜県本巣郡の農家の生まれで、4人兄弟の長男でしたが、一町五反歩の耕作田では兄弟各々分家して農業を営むことはできないと考え、当時北海道各地に屯田兵入植が盛んに行われているのを耳にして、北海道移住を強く志しました。

屯田兵は不合格となりましたが、31歳の2月、老父を弟に託し、妻と3人の子供を連れて来道、今の川西村に入植しました。窓鍬一丁、馬もない苦難に満ちた開墾で、一年をかけて約一町五反歩(約1.5ha)の畑を作るのが精一杯でした。
※窓鍬-まどぐわ…刃に2つの窓があり、畑の荒起こしや田起こしの時、土や泥がつきにくくなっている構造の軽量化された鍬。

渡道した年の秋、老父が急死しました。
弟夫婦に計り、土地・家屋を整理して得た金を手に帰道した時、美生というところに既に畑になった売地があることを聞き、早速買い求めたのが今の松久園の地です。

じゃがいも畑渡道2年後の明治41年3月美生に移転、一時美生川沿いに仮小屋を建てて現在の畑を耕作していました。
翌42年、現在地に30坪ほどの水車小屋を兼ねた家を建てて、精穀・精粉・うどんの製造などを始め、同43年からは馬鈴薯澱粉の製造も着手しました。
 
 
亡父への餞けとしての住宅
 
  福運でしょうか、大正6年は比較的馬鈴薯の作付けが多く、平年だと500袋前後の物が1200袋もの澱粉が出来ました。第一次欧州大戦後の景気と重なり、豆類・澱粉が暴騰し思わぬ大金を手にしました。

建築記念 大正7年6月5日市治は大きな家を建てたことをこう話しています。
『渡道を老父に打ち明けた時、飽くまで反対され、おまえが住むのに家が狭ければ増築して、もと材料も用意してある。北海道行きだけはやめてほしいといって止められたことを思うにつけ、予期しない金を手中にしたのをそのまま持っていては、下手をするとなくなってしまうから、亡父への唯一の餞けとして精一杯の気持ちを表現すべく必要以上のおおきな家を造ったのだ。』と。

43歳で当時としては破格の建築をしたのですから、一生を通じて強い張り合いを覚えたに違いありません。
市治は昭和18年7月、68歳で亡くなりましたが、精一杯生き抜いた人生といえるでしょう。

松久園店内家の建坪は一階が100坪、二階が61坪で、材料の内柱の大部分は北見・置戸産のエンジュを使い、
その他はほとんど地元のものを使用しています。
 
 
副業に始めたにじます養殖
 
 

ルピナスの花二代目・松久正光は川水を利用して冬期間、凍豆腐の製造を約15年間続けていましたが、昭和28年に町内に近代的な工場が出来たのを機に製造をやめてしまいます。

その後、農業のかたわら年間を通じて出来る副業はないものかと、昭和22年・大正サケ・マスふ化場からニジマスの卵4,000粒を購入。試験飼育してみたところ、好成績を得ることが出来ました。
同33年頃は全道的に養魚業が盛んになり、道立水産ふ化場から5万粒の卵を導入し、完全な副業化へのスタートを切りました。
しかし、流通ルートが見出せず、自分のところで魚を買ってもらうしかないと釣堀を始めました。

昭和36年、帯広で食堂を経営している横山という人が釣りに来て、
「こんなに大きく立派な住宅を空き家同然にしておくのはもったいない。私が料理の指導をしてあげるよ。」と
すすめられ、それまで夢にも考えなかった飲食業を始め、現在に至っています。